夫の誕生日

そのむかし,「世界を変えて!」と夫に言ったことがあったなあ,と思いおこす。

 

当時,夫はオーバードクターで,大学の非常勤講師や塾のアルバイト講師をして生活費を稼いでいた。

企業に就職せず,公務員でもなく,大学の常勤勤務もしていないオトコは,それだけで一人前とみなされなかったころ。

大学を卒業したオンナには市場価値がないと思われていたころ。

 

バブルで浮き立っている時代,わたしたちは貧乏カップルだった。

 

夫は,こつこつ論文を書き続けながら,「一人前」になれないことに焦燥感を抱いていた。

なにかにつけ順番を付けて並びたがるオトコの世界を不思議な気分で眺めつつ,わたしは,1日1000円で食材を調達して慣れない料理をすることにとりあえず熱中し,楽しんでいた。

安定した家庭を作り,野望を持って仕事をすることができれば幸せだと思っていた。

 

焦らないで。いつか,あなたしかできない仕事で世界を変えて! 

それは,不器用なわたしの精一杯の愛情表現だったが,不確かな自分の将来へのエールでもあったのだろう。

 

それから数年後,夫は教員の定職を得られ,私も仕事を始めることになる。

もちろん「世界を変える」のは,夫にとっても私にとっても簡単でなかった。

しばしば深夜まで飲みながら話し続け,結局,私たちに何ができているの? まだまだ見えないことも足らないことも多すぎるよねと感じながら,明日のために眠りについた。

 

今日は,46歳で亡くなってしまった夫の誕生日。

彼がいたら,60歳代になったわたしたちは,どんな会話をしただろう。

世界のほんの一部でも変えることができたと互いに思えたかな。

今の世界をどんな風に評価して,これからの人生で何をしたいと言ったかな。

子どもたち二人が当時のわたしたちの年齢になり,この世界を変えようとしていることを彼はどんな風に思ったかな。

 

もっとたくさん話したかったと思う。

日頃,お墓参りも行かないけれど,夫との日々が大人としてのわたしの出発点だったことを誇らしく感じる。