加齢ということ(2019.2.16) 母

 

先日,仕事で予想外の失敗をしてしまい,その落ち込みからしばらく回復できなかった。

 

むしろ,最近は,方針の立て方や処理の手順が頭の中でクッキリしてきたように思っていた。後輩が思うように指導に反応してくれないことにときに苛立ちつつ,いやいや,そんな風に思えるのは,まだ指導できる立場にいられるってことだと受け止めよう,などと思っていた。

そんな傲慢も失敗の一因かもしれない。

 

でも,今回の失敗がとっさの判断ミスだったことを思えば,自分の情報処理能力が衰えていることが大きな原因であった可能性が高いと思い至った。

最近,たとえば母をデイサービスに見送ってから仕事に出かけるとき,あれと,これと,それと,,と指折り数えて母帰宅後に問題がないように段取りを踏み,その後にもう一度確認する。それでも不安になって,鍵をもう一度開けることがある。

思い返せば,同時並行でいろんなことをしていた若いころには,そんな段取りをいちいち考えなかったし,不安を感じたこともなかった。

アタマの処理スピードが遅くなっているのに,即時に確認できていたときと同じようにカラダが次の行動に移ってしまうものだから,アタマが「確認未了!」と信号を発して不安になるのではないか。

 

失敗の原因は,この処理スピードの低下にあったのだ。

原因を突き止めて,ほんの少しだけ気持ちの整理がついたような気がする。

自分の能力低下の事実を認めるのは苦々しいが,受け入れなければ対策は立てられないし,次へと進めない。

 

 

考えてみれば,最近は何ごとにも慎重になり,予定の時刻より早く到着できるよう逆算しながら生活しているが,これも昔にはなかったことだ。アタマとカラダの動きのちぐはぐが日常的に起きることを無意識のうちに自覚していたのかもしれない。

 

昨日,娘の受賞がきっかけで,東京で子どもたちと会食ができた。

東京駅までタクシーで5分の場所だったが,最終の21時24分発の新幹線で帰宅する予定だったので,いつもの通り,会食は早い目に始め,21時までにはホテルを出発しなくては,と計算してしまった。

久しぶりの3人での外食を楽しめたのはもちろんだが,息子も娘も,私が過剰に時間を気にしているのを感じて違和感をもったようだった。

昔の私は,今の子どもたちと同様,次の予定に間に合うぎりぎりまで動かなかったのだから当然だろう。

 

若いころには想像もしなかったような変化が加齢に伴って心身にあらわれる。

衰えは率直に認めて,そのせいで問題が起きないよう知恵をめぐらせよう。

今回の失敗の原因は後輩に伝えて,私の衰えに気付いたときには遠慮なく注意してもらおう。

子どもたちにも申し訳ないが,こんな母の衰えについて伝えておかなければならないと思う。

 

実家の片づけ(2018.11.11 母)

9時過ぎ,二度目の二泊ショートステイに母を送る。日曜日の送迎は家族がすることになっている。昨日の朝,腰が痛いと言って整形外科で薬をもらってきたので,伝達ミスのないように区分けして付箋を貼ったものを持たせる。そのほか,着替えと紙パンツと淋しくなったときのための昔の写真とカレンダーの裏に書いた簡単な手紙。忘れ物はないかな,と思って準備するのは,子どもたちが小さい頃を思い出させてくれる。

施設の玄関で職員の方に手を引かれていく母に「いってらっしゃい,楽しんでね」と声をかけるのも幼稚園や保育所に子どもたちを送っていったときと同じ。

送って行ったついでに,気になっていた実家の様子を見に行った。

6月の地震の直後に行き,食器棚から大量の食器が落下して割れている様子や本棚がベッドに倒れて,本が散乱している様子を確認したが,片付ける元気がなく,そのまま帰ってきた。その後,庭の剪定を頼んだ後にも寄ったが,家の中に入ることはできなかった。

夏から何度か激しい台風が来たので,気になっていたが,母を連れて行けず,週末の母不在のときには別の予定を入れてしまっていたので,気が付くと5ヶ月近く放置状態。

地震の後,実家の擁壁のひび割れを気にされていた隣家の方が在宅されていたので,挨拶ができたのはよかったが,その後,実家を点検すると,台風のせいか雨戸が一枚,庭に倒れていた。家の中の食器棚と本棚は当然ながら地震直後のまま。

あ~あ。と思ったものの,やはり片付ける気力はわかず,結局,将来処分するときまで放置するしかないのか,,と暗い気持ちで自宅に車を走らせた。

 

ところが,その途中,息子からラインの連絡。

11月の日曜日に帰れるかも,とは聞いていたが,え,もうすぐ帰宅するって? どうやら,夕べ,京都で高校の同級生たちとの集まりがあったらしい。

思わず現状を話すと,日帰りだというのに,一緒に片付けに行ってくれると言う。

早い目のランチを済ませて再度実家へ。

わたし以上に久しぶりの息子に,惨憺たる状態の実家を見せるのは心痛むところがあったが,背に腹は代えられない。これぞチャンスと,思い切って一緒に入った。

東京在住の息子は,あの地震を経験していなかったので,食器棚と本棚の惨状を見て少しショックを受けた様子だった。

それから2時間。わたしたち親子,こんなに働き者だった? と思うほど,せっせと動き回り,割れた食器を袋に入れて,本棚を落下した本やレコード類を片づけた。

久しぶりに風を入れてもらい,35年前にこの家の住人に幸せな気持ちをもたらせてくれた息子を迎え入れて,実家は,急に命を吹き返したようだった。

 

2年前,母のいない週末に何度か通って衣類等の整理をしていたからか,息子は,「思ったほど荒れてないやん」と言ってくれた。

 

とりあえず散乱した物を片づけた後,息子は,庭の雑草も引こうかと試みたが,根が深すぎて諦めた。今度,電動草刈り機を買って持ってこようということになる。

結局,割れた食器類を入れた袋,不要な化粧品類を入れた袋,母が昔参加していた俳句の同人誌,その他のゴミを乗せたら,車はいっぱいになった。

 

母が大切にしてきた家。今もなお,しょっちゅう「見に行きたい」と言い続けている家。母の宝物だったグランドピアノは,母も納得して知り合いのピアニストに引き取ってもらったのに,いまだに「置いたままにしているグランドピアノが心配」と言う。

もう母にこの家は見せられない。でも,母が元気でいる間は,少しでもこの家に元気でいてもらいたい。

 

今日の出来事を娘に報告すると,「じゃあ,今度帰ったときには,庭の雑草きれいにしようね」と言ってくれた。

なんだか,幸せな気分になれた週末だった。

 

息子の帰宅(2018.9.24 母)

 

息子が4か月ぶりに東京から帰ってきた。モバイル広告の仕事が佳境に入っていて,日々充実して忙しそうだ。

こちらでは,この夏,地震があり,猛暑があり,台風があった。荒れ果てた庭を少しでも見栄えよくしなきゃと,涼しくなってからは草引きや庭掃除等をした。地震でめちゃくちゃになっていた本棚を整理するついでに息子の部屋のタンスも整理した。すべて手作業の労務だが,達成感があって,生活ってこういうものだよね,と一人納得していた。

待ちわびた久しぶりの息子の帰宅。深夜になると言っていたが,夕食を準備するから新幹線で食べないでねと伝えて,胃もたれしないメニューを考えて作った。

 

こんなワクワク感は久しぶりだったが,母とは共有できないので,いつもの通り,一緒に風呂に入り,10時には母を寝かせて息子を迎えに行った。

 

翌朝,母を驚かせようと思い,「今日はいい日だよ」と予告して,息子が2階から降りてくるときには,「誰かな」と謎かけをした。

でも,息子の姿を見ても母はきょとんとしている。

「誰でしょう」と言うと,「ようちゃん」「しんちゃん」とはるか昔に母が一緒に遊んだ従兄弟の名前が出てくる。

●ちゃんだよ,と正解を伝えたが,母は,「●ちゃんは,とっても可愛い子で,いっぱい一緒に遊んだよ」と20年以上前の記憶を辿りだす。息子が苦笑いしながら,「じゃ,この人は誰?」と私を指さすと,母は私の娘の名前を言うので,息子と思わず顔を見合わせた。

その後,現状を説明したが,朝から試されたので,母は混乱してしまったようだ。

 

そういえば,こないだの日曜日,母は一人で庭に出たものの,出たドアから入ることに思い至らず,鍵の締まっている玄関を叩き続け,2階にいた私がようやく気づいて出迎えたときには,泣きそうになって怒っていた。

また,先週の4度目のショートステイでは,夜中に鞄を持って「今から家に帰りますからタクシーを呼んでください」と言い,職員の方を困らせたらしい。

こんな母の様子に接していたのだから,もっと丁寧な対応をするべきだった。

母にしてみれば,からかわれたような気分で一日が始まったためだろう。この日は,父が亡くなった20年近く前に住んでいた家に帰りたいと訴え続けた。

その話をごまかし,気分転換になるかと毎週行っているスーパーマーケットに食材を一緒に買いに行って,駐車場の車に向かう途中,「いつも来ているとこだったよね」と声をかけた。

でも,母の頭は,いつも思い出す小さいころの記憶に戻ってしまっているらしく,「うちの食材は,いつもお手伝いさんが買ってきてくれたものですよ」と,よそよそしく答える。その後も,ですます調は変わらず,私のことを介護職員と思っているらしかった。

帰宅後,ブルーな気分で一人で庭の草引きをしていたら,最近庭にも関心がなくなっていた母が出てきたのでほっとした。でも,よく見ると鞄を持っていて,「いつになったら私を▲に連れて行ってくれるんでしょうか」とていねいな口調で尋ねてきた。

結局,この日の母は寝るまでうつろな状態だったが,私は息子の食事作りに熱中し,母の異変に気付いていないふりをした。

 

息子が二泊した翌朝,早く起き出していた母の着替えをさせると,母は,リビングに貼ってある最近の息子と娘の最近の写真をまじまじ見て,「これは誰?」と言う。

説明したら,「まあ,こんなに大きくなって!」と驚くので,「そうだよ,今日は●ちゃんが帰ってきていて二階で寝ているよ」と答えたら,ようやく小さかった●ちゃんが今の●ちゃんになっていることに関連があると気づいたようだった。

「●ちゃんを見に行こうか」と母を連れて二階の部屋に行き,寝ていた息子を起こした。

「ほら,●ちゃんがいたよね」と言って,息子が寝ぼけ眼の笑顔で手を出したら,母はしっかり手を握り,久しぶりに本心でうれしそうな表情を見せた。

その後,息子に見送られてデイサービスの車に乗るまで,母は,「●ちゃんは」と言い続けた。

 

モバイルの広告業界で日々生き馬の目を抜くやり取りを続けている息子。

ドメスティックな仕事をしながら時代の変化を受け止めるのに苦労して庭の草抜きをしてリラックスしようとしているわたし。

能力の減退にギブアップして80年前の幼少時代の思い出に生きている母。

能力が衰えてきた母には,いつも現在の安心感を自覚させることが必要なのだ。息子の帰宅に舞い上がってしまったわたしは母へのフォローをおざなりにしてしまっていた。母は,そんな対応に抵抗したのだろう。

日頃のストレスを息子との感情交流で補おうとした言動が,おそらく母には自分だけが疎外されたと感じられるものになったのだと思う。

 

わたしにとって最も大切な母と息子と娘との人間関係をどうバランスを取って調整するのがいいのか。

これって難問だけれど,ちょうどいい脳トレかも。

  

夫の命日(2018.9.6 母)

   今日は,夫の20年目の命日である。

 

 知りあってから20年,結婚してから16年後に夫は亡くなった。

 夫は,私と対照的に社交的で人に好かれるキャラクターの持ち主だった。

 でも,今の若い人から見れば笑ってしまうほど保守的で,私が結婚後に仕事を始めることに反対し,もちろん自分が家事育児を担うことなど想定もしておらず,それなら実家の両親を頼りにしたいという私の転居計画に強く反対した。そんな希望を意に介さず仕事を持ってしまった私との間では,一時期大きな軋轢があった。

 そのうち分かってくれるさ,と気楽に構えて自分の計画通りの生活を進めてきた数年後,健康だったはずの夫に病気が見つかった。

 葬儀には,驚くほどたくさんの方々が訪れてくださり,たくさんの弔電や手紙をいただいたが,20年も経てば,多くの方々の記憶からは遠ざかっていくのは仕方がない。

 

 仕事でも家庭でも,たくさんの意欲と希望とチャンスを手にしていながら,無念にも病没してしまった夫の思いを等身大で受け止めることができるのは私しかいないのだろうと思う。人が亡くなるというのはそういうことだ,と60歳を過ぎた私は実感する。

 

 亡くなった夫の歳を数えても仕方のないことだが,元来素直で世の流れをキャッチしようと努める人だったから,きっとこの20年間の生活をともにしていれば,世の同世代の男性の中でも輝く個性を発揮する人になっただろうと身びいきにも思ってしまう。

 

満14歳と10歳で父を失った子どもたちは,40歳代の闊達な父の像をありありと記憶しているようだ。そんな父と不釣り合いに歳をとってしまった母の姿を見せたくないと精一杯の無理をしつつ,こんな父母が子どもたちに託す思いを受け止めて,難しい今の時代で活躍してほしいと改めて思う。

サルスベリ(2018.8.5 母)

暑い日が続く。

この時期に都会の路上に咲く花は少ないが,サルスベリは夏中咲き続けている。

昔は,田舎くさくて品のない花だとちょっと見下していた。

 

このところ,家から出たら日蔭を探しながら一目散でガレージに向かっていたが,先日,玄関を出てピンクの花びらが落ちているのが目にとまり,シラガシの隙間から自生して大きくなったサルスベリが,高いところで花を付けていたのに気付いた。

見上げると,狭いところにしっかり根を張ったサルスベリがシラガシのてっぺんより高いところで一人誇らしげに咲いている。何ヶ月も咲き続ける強靭な植物だけある,とちょっとおかしくて愛おしくなった。

 

そういえば,夫が亡くなった20年前の夏もサルスベリの花を何度も目にした。

入院先の病院から帰宅させ,最期の数週間を自宅で一緒に過ごしたが,じりじりと暑い日に咲き続けているサルスベリがまぶしくて,強い生命力をうらやましく思ったものだった。

 

でも,入院先の病院にいつも持っていっていたのは小花のひまわりだった。ちょっとおしゃれで,明るい色で元気をくれるような気がした。今は,病室に花を持ち込むのは禁止されていると聞くが,そのころ,病院近くの花屋さんは,花弁がおじぎしてしまわないよう,ひまわりの茎に細い針金を丁寧に入れて渡してくれた。

この季節,花屋さんには何種類もの小花ひまわりが並んでいて,あのころ,こんなにたくさん種類があったら,毎回いろんな花を選べたのに,と思ってしまう。

 

昨年9月には,尊敬する先輩が亡くなった。玄関先でサルスベリのピンクを目にするたび,先に逝った人々と過ごした時間に思いを馳せながら,おしゃれでなくても,花屋さんの手を借りなくても,こんな暑い日中でも咲き続けているサルスベリに本当はもっと敬意を払ってもいいのかもしれないかなと思う。

災害と不安(母)

6月18日の朝に関西に地震があり,7月には予想外の大雨で西日本の多くの人が亡くなった。

 地震震源地近くにある自宅では,大量の食器が割れ,書庫がめちゃくちゃになる被害を受けたが,大雨については,スマホの警報が鳴り続けただけで実害はなかった。

 地震を体験してしばらくたっても落ち着かない気分が続いたのに,大雨災害で多くの人々の命が失われたと報道されても,ごく身近に被害がないだけで,どこかよそごと感を持ってしまっていた。

 

 それでも,大雨の直後から「命に危険のある暑さ」が続いていることは関西でも同じで,大雨の被災地の状況が気になって,ニュースを流し続けてしまった。

 自宅が泥まみれになったら,地震で壊れた物を片づけるのとは比べものにならないほど脱力感を感じるだろう。この暑さの中で自宅から泥を運び出し使えなくなった家具を処分する作業をしていたら,喪失感に浸る暇もないにちがいない。

 

食器が割れた程度の経験をしただけでも漠然とした不安感が1ヶ月余り続いた。突然の災害で当たり前の日常が壊れてしまう恐ろしさのほんの一端を感じ,自宅ごと無くなってしまうような被害に直面したら立ち上がることもできないだろう自分の脆弱さに気付く。

そして,同時に,実感のあることにしか積極的に関心を持とうとしないエゴも自覚する。

 災害への不安をかきたてられるのは,我が家や自分の身近な人が被災するかもしれないという恐怖感が根っこにあるからだろうと改めて感じる。

 

それでも,今後起きるかもしれない自然災害に不安を抱いてもきりがないとも思う。

災害の可能性を日常的な危機感と受け止めると,感覚も活動の意欲も萎縮してしまう。

いまだに災害グッズを十分準備していないのは,横着な性格にもよるが,何か起きればそのときに持ち合わせたもので乗り切るしかないと思って60年以上生きてきた習慣が身についているからかもしれない。

何かあれば,そのときにできることをしよう。

なんていうのは最近かまびすしい災害対策の報道に照らせば褒められたことではないだろうけど。

災害続きの夏の経験を経て,自分の奥にひそむ不安感とふてぶてしさを改めて実感した。

「結婚」を想像した30歳女子(娘)

私にとって、唯一と言ってもよい友人と、珍しい話題になった。

「結婚」。

 

お互いにそのあたりの話は得意ではなく、お互いに不可侵という雰囲気でやってきたが、三十路になっていよいよ考えざるをえなくなってきた。

付き合って3年ほどたつ彼氏を持つ友人は、1年ほど前から、いわゆる求婚をされているらしい。

「いいやん、したら。あんたと結婚してくれる心の広い男はあの子しかおらんで」

「うちもそう思うねん。するならその子やと思うんやけど。」

 

けどさあ、、、と言う。

彼女の懸念は、結婚という「契約」によって自分のアイデンティティが失われるという恐怖のようだ。

結婚したら「●●の奥さん」として扱われる、今までのように自由に遊べない・遊んではいけないという「世間様の目」が嫌でしょうがない。明らかにデメリットが多すぎる、と。

彼女の周辺の結婚した友人を誘いづらくなったという実体験も影響しているらしい。

 

ふーーーーむ。

なんとなく分かるようで分からない、というか、そんな昔ながらの固定観念を恐れるのかこいつは、という感覚を持った。

 

考えて、翌日に、こうLINEした。

「やっぱり考えたけど、自分が自分のライフスタイルを守ればなんとかなるもんちゃう?甘いかもしれへんけど」

「そうなんかなー、自分がそうでも、やっぱ世間様があるやんか?あそこの奥さん、お友達と2週間も旅行やて!みたいなさあ」

「気にせんでいいやろそんなん。結婚したとしても2週間旅行いこや」

「せやな、行こう行こう」

 

やっぱり甘いのかもしれないけど、なんとかなるだろうと思えるのは、30年前の時代にありながら、自分の夢や生き方をまっすぐに追いかけて実現し、(成功か不成功か分からないけど)子供2人を育てあげた母の姿のおかげであることは間違いない。

●●のお母さん、●●の奥さん、ではなく社会の中で1人の仕事人として生きて、子育てがひと段落した50歳を過ぎてからが最もエネルギッシュに見える、母のおかげだ。

そんなにうまく、強くカッコよくできる自信はないけど、(何より結婚できるのか分からないけど)憧れと目標であり続ける、女性としての生き方だ。