災害と不安(母)

6月18日の朝に関西に地震があり,7月には予想外の大雨で西日本の多くの人が亡くなった。

 地震震源地近くにある自宅では,大量の食器が割れ,書庫がめちゃくちゃになる被害を受けたが,大雨については,スマホの警報が鳴り続けただけで実害はなかった。

 地震を体験してしばらくたっても落ち着かない気分が続いたのに,大雨災害で多くの人々の命が失われたと報道されても,ごく身近に被害がないだけで,どこかよそごと感を持ってしまっていた。

 

 それでも,大雨の直後から「命に危険のある暑さ」が続いていることは関西でも同じで,大雨の被災地の状況が気になって,ニュースを流し続けてしまった。

 自宅が泥まみれになったら,地震で壊れた物を片づけるのとは比べものにならないほど脱力感を感じるだろう。この暑さの中で自宅から泥を運び出し使えなくなった家具を処分する作業をしていたら,喪失感に浸る暇もないにちがいない。

 

食器が割れた程度の経験をしただけでも漠然とした不安感が1ヶ月余り続いた。突然の災害で当たり前の日常が壊れてしまう恐ろしさのほんの一端を感じ,自宅ごと無くなってしまうような被害に直面したら立ち上がることもできないだろう自分の脆弱さに気付く。

そして,同時に,実感のあることにしか積極的に関心を持とうとしないエゴも自覚する。

 災害への不安をかきたてられるのは,我が家や自分の身近な人が被災するかもしれないという恐怖感が根っこにあるからだろうと改めて感じる。

 

それでも,今後起きるかもしれない自然災害に不安を抱いてもきりがないとも思う。

災害の可能性を日常的な危機感と受け止めると,感覚も活動の意欲も萎縮してしまう。

いまだに災害グッズを十分準備していないのは,横着な性格にもよるが,何か起きればそのときに持ち合わせたもので乗り切るしかないと思って60年以上生きてきた習慣が身についているからかもしれない。

何かあれば,そのときにできることをしよう。

なんていうのは最近かまびすしい災害対策の報道に照らせば褒められたことではないだろうけど。

災害続きの夏の経験を経て,自分の奥にひそむ不安感とふてぶてしさを改めて実感した。