認知症の検査 (母)

ついに母が認知症の検査を受けた。

ケアマネさんが介護度の区分変更申請を勧めてくれたことがきっかけだった。

従来かかっていた内科の先生に診断書を書いてもらおうとしたが,区分変更の意見書は専門医に書いてもらうよう指示され,しかたなく,少しでも抵抗が少ないだろうと町の「物忘れ外来」を標榜する診療所を受診した。

事前に作成した問診票を持って家族問診を1時間。その後本人同行という手順が決められていたが,意見書作成が主目的で認知症治療は考えていないという方針を確認された後は,スタッフの対応がおざなりになった。

特効薬があるならともかく,いまさら負担の多いMRI検査を受けて脳の萎縮度を確認してもしかたない。脳血管性やレビー小体型の特徴はないからアルツハイマーだろうというのは素人判断だが,平和に暮らしているんだから原因を突き止めても意味はない。

 

認知症判定の簡単な検査方法は知っている。この検査を母が受けたら何点だろうと考えたこともあったが,ついに正式に検査を受けることになって,私の方がドキドキした。

最近の母は,どこに行ったのかも認識していないので,認知症治療の看板を掲げた診療所に入ることに抵抗はないはずだった。それでも,いきなり知能テストを受けさせられたら不快だろうと思い,「健康診断受けに行こう」とデイケアの途中に迎えに行った。

 

長谷川式検査は看護師さんの担当。

「年齢は?」という問いには,「忘れました」。

「だいたいいくつぐらいだと思いますか」とさらに聞かれると「40歳くらい」!

生年月日は正確に答えられたが,今日が何年何月何日か「わからない」のだから,年齢を計算しようがないようなあ,と思いながら聞いていた。

「いまいる場所はどこですか」という質問には,病院の部屋だと正答。直前まで,「健康診断だよ」「この診療所は初めてだよね」等と吹き込んでいたのが功を奏した。

「梅,犬,自動車」という言葉は,聞いた直後は復唱できた。数問後に確認されても無理だろうと思っていたが,「植物,動物,乗り物」のヒントで正解!

100から7を引いていく計算はまったくできず。数字を逆順で復唱するのは,3つは成功したが,4つになると間違えた。

机に置かれた5つの物を直後に隠されると2つしか答えられなかった。

 

このあたりで疲れてきたのか,残りの3つを思い出せないか聞かれ,「さっきはまわりにおしゃべりしている人がいた」とわけのわからない言い訳を始めた。さらに,「消しゴムはありましたか」「鉛筆はありましたか」と誘導されたが半分間違い! 

「眼鏡はありましたか」という質問に,「かけています」と答えたのには笑ってしまった(残りの3つにあったのだが)。

 

高度認知症と診断されてしまうんじゃないかと心配していたら,最後の「野菜の名前を言ってください」という質問は,少し時間はかかったが,なんと10問クリア!

途中で,「竹輪のはっぱ(?)」「八宝菜」「餃子」の答えも混じっていたが,,。

 

その後にようやく医師の問診。

「今,一緒に来ているのは誰ですか」という質問。最近,家族の関係がよく分からなくなっている母は戸惑った様子で,「一緒に住んでいる人です」。間違いではない。

関係を聞かれて「親戚」。これも間違いではないが。。

ついに,思い出せないことにはにかむ様子で,「仲良しです!」と元気よく答えた。

医師は諦め,「子どもさんは何人いますか」と質問を変えた。これも母には難問。

時間をかけて考えたあげく,「5人!」(実際には2人)。

間違いかなあと自分でも思ったようで,「子どもは大きくなるとよく分からなくなりますからね」としたり顔で説明する。

年齢を再度聞かれると,「70歳は過ぎていると思います」。少し近づいてきたぞ!

健康状態の質問には,「水泳,バレー等なんでもやっています!」。いつのことだ?

かかりつけ医を聞かれると,「お産のときにお世話になってね」。誰のお産だ?

食事は誰が作っているか聞かれ,「ご飯を炊かなきゃいけないでしょ。炊飯器が便利でね」。自分で食事の準備をしているのかさらに聞かれると,ちょっとムッとした様子で「小さな男の子がいると面倒みなきゃいけないから,,」。言い訳だ!

最後の「歳をとると物覚えが悪くなることもあるけれど,いかがですか」という質問には,「ショックを受けて忘れることはあるけれど,物忘れはありませんよ」と強い口調で締めくくった。

 

帰宅後,チェックしてみたら,長谷川式は16/30くらいか。中度の認知症レベルの数値のようだ。

介護度をあげるための受診なのに,検査というと少しでも高い点数を取らせたいと思うのは母譲りの教育ママ気質かもしれない。そこそこでとどまってくれてよかった。

 

せっかく初めて専門医の診察を受けられたのに,治療の選択肢や今後の日常生活への対応の仕方等,できれば質問したいと思っていたことを言い出す機会はなかった。

診察終了後,牛肉を買って帰り,「美味しいね」と大げさに騒ぎたてて夕食に焼き肉を食べたから,多分,母は,今日のことはすっかり忘れてくれたことだろう。

介護度をあげると経済的負担は減るけれど,できればこんな検査,受けたくないだろうな,と思う。

3年日記(娘)

今年初めて?の更新。

そんな3日坊主の娘が、なんと日記を始めることにした。

きっかけはGW。前職の先輩が転職を機に静岡に遊びに来てくれたこと。(私の退社あたりからすごい勢いで退職者が出てきてる。いいタイミングだったなあ~なんて)

在職中は多少なりともの遠慮があったが、お互いに退社した身となり、また久しぶりに会ったことで距離感が分からなくなり(良い意味で)、以前とは違うフラットな雰囲気でいろんな話ができた。

私の2倍以上を前職の会社で過ごした彼女からは、意思決定したとはいえ、やっぱり残る未練というのか愛社精神というのか、を感じ、彼女にとって本当に大きな決断だったんだと実感。(私と違って)

 

それと同時に、「書く」ことを通じた代替できない人間関係、「書く」ことのかけがえのない価値を久しぶりに思い出させてくれた。そんな彼女が転職の一大決心を機に「3年日記」を始めたという。

お世辞にも彼女も私と同じ、マメでない側の人間。普通なら続かないけど3年前の自分のことを思い出せるっておもしろいよね、と始めたらしい。

実は社会人になるタイミングで「5年日記」を初めて半年ほどで挫折した経験をすでに持っている私。悩んだけど、再度チャレンジを始めることにした。(5年日記が続いたとしても、ちょうど終わったころだし)

 

とりあえず「どちらが続くか」、競う(?)相手がいるのは励みになる。

初日から5日分まとめ書きをしながら、久しぶりの手書きの新鮮さを味わう。

 

連休 (母)

娘が帰ってきた!

 

2日の夜,京都で二人の夕食を楽しみ,3日午前に体験ピラティスに参加し,午後はジャズストリートを開催している街中を散歩した。

関西での仕事も同級生との約束もなかったらしく,珍しく丸一日以上を一緒に過ごせた。

 

なんということもない会話,行き当たりばったりの店での買い物,あり合わせで作った家の食事,この時期に裏の池で毎夜啼くカエル。

昔は当たり前の日常だったが,今は,空間を共有できる時間がとてつもなく貴重だ。

  

母との接し方も習得してくれた模様。繰り返し話も脈絡のない話も,にこやかに聞き流し,適当な相槌を打っている。

 

おまけに,娘は,ジャズストリートの夜のイベントに母も誘ってあげようと提案してきた。

最近は週末の食材の買物のほか一緒に出かけることはなかったが,音楽なら楽しめるかもねと賛成して,デイサービスから帰宅した母を連れに戻って,3人で出かけた。

でも,母は,車から降りると,誰と一緒でどこにいるのかわからず混乱した話を始め,すぐ近くの会場まで歩くのにへとへとで,会場で座ったとたん居眠りをしてしまった。そして,帰宅後は,音楽を聴きに行ったことは忘れさり,ひたすら機嫌が悪く,珍しく苛立った反応を見せた。

 

母の容量は,からだもこころもすっかり小さくなってしまっている。

せっかくの提案は残念な結果に終わったが,縮んでいく母を目の当たりにして,一緒に心を痛める家族がいるだけで救われる気分になる。

 

4日の早朝,娘は出かけてしまった。

その後,冷蔵庫を開けると,散歩の途中に娘と一緒に選んだチョコレートを発見。

一緒に食べるには短すぎる滞在だよね,と思いつつ,一人でかじった。

夫の誕生日

そのむかし,「世界を変えて!」と夫に言ったことがあったなあ,と思いおこす。

 

当時,夫はオーバードクターで,大学の非常勤講師や塾のアルバイト講師をして生活費を稼いでいた。

企業に就職せず,公務員でもなく,大学の常勤勤務もしていないオトコは,それだけで一人前とみなされなかったころ。

大学を卒業したオンナには市場価値がないと思われていたころ。

 

バブルで浮き立っている時代,わたしたちは貧乏カップルだった。

 

夫は,こつこつ論文を書き続けながら,「一人前」になれないことに焦燥感を抱いていた。

なにかにつけ順番を付けて並びたがるオトコの世界を不思議な気分で眺めつつ,わたしは,1日1000円で食材を調達して慣れない料理をすることにとりあえず熱中し,楽しんでいた。

安定した家庭を作り,野望を持って仕事をすることができれば幸せだと思っていた。

 

焦らないで。いつか,あなたしかできない仕事で世界を変えて! 

それは,不器用なわたしの精一杯の愛情表現だったが,不確かな自分の将来へのエールでもあったのだろう。

 

それから数年後,夫は教員の定職を得られ,私も仕事を始めることになる。

もちろん「世界を変える」のは,夫にとっても私にとっても簡単でなかった。

しばしば深夜まで飲みながら話し続け,結局,私たちに何ができているの? まだまだ見えないことも足らないことも多すぎるよねと感じながら,明日のために眠りについた。

 

今日は,46歳で亡くなってしまった夫の誕生日。

彼がいたら,60歳代になったわたしたちは,どんな会話をしただろう。

世界のほんの一部でも変えることができたと互いに思えたかな。

今の世界をどんな風に評価して,これからの人生で何をしたいと言ったかな。

子どもたち二人が当時のわたしたちの年齢になり,この世界を変えようとしていることを彼はどんな風に思ったかな。

 

もっとたくさん話したかったと思う。

日頃,お墓参りも行かないけれど,夫との日々が大人としてのわたしの出発点だったことを誇らしく感じる。

健康診断

健康は取り柄だと思ってきた。

満62歳になるまで,出産のときを除いて入院したことはない。それどころか病気や怪我で診察を受けたことも数回で,風邪をひいたり発熱したりして一日寝ていた経験もほとんどない。

 

しかし,先日の健康診断でついにひっかかった!

毎年,メニューはお任せだったが,今年は腹部エコーが追加されたという。胃カメラは気持ちが悪いから外していたが,エコーなら大した負担じゃないと思って初めて受けた。

ところが,戻ってきた資料の冒頭に,「腹部エコーの結果,5cm大の卵巣のう腫疑い,近日中に婦人科で確認を」と書いてあるではないか。

 

慌ててネット検索をする。信頼できそうな医師によるサイトを見ても恐ろしげな記事が多い。

「90%以上は良性」というのは,裏返せば10%近くは悪性ということではないか。

しかも,良性でも,肥大していき破裂したり捻じれたりして強烈な腹痛を発症することがあるという。

だから良性の場合にも手術が必要になることがあり,その目安は5~6cm大のものらしい。 わ! ぎりぎりだ。

手術の手法は,開腹手術か内視鏡手術。入院期間は1週間程度。回復には1ヶ月程度かかるとある。

 

最悪ではなくとも手術が必要になることがある??

1週間の入院中,母はどうするんだ!!

入院前には,いついなくなっても恥ずかしくないように身辺整理しなきゃ!

 

知り合いの医師に連絡して,手術はどの医療機関で受けるのがいいのか相談しようか。

それより,まず,子どもたちに連絡して,いつなら入院してもいいか尋ねてみようか。

 

思わず頭に血がのぼったが,少し落ち着いてから冷静に考えた。

とりあえず,黙って精密検査を受けるしかない,と。

 

 

健康診断結果の案内に沿って職場近くの婦人科に行き,再度エコーで細かく確認。

卵巣のう腫があることは間違いないらしい。良性なら抱えていく選択もあるが,悪性ならそうはいかない,悪性のものかどうかMRIと血液検査で確認しましょう,と穏やかに医師に言われ,採血された。

 

今日,そのMRIを受けた。聞いたことはあったが,これほど大掛かりな装置に身を委ねて我慢しないといけない検査だったんだ。

検査終了1時間後,結果を受け取ったものの,自分で見ることはできない。明日婦人科に持参して,医師の意見を聞く予定だったが,もう待てない。

予約を変更して,その足で婦人科に向かった。

 

 

医師から見せられたMRIの結果は,左側卵巣に約5cm大の腫瘤影があるが,「皮脂腺から分泌された脂肪成分として矛盾しない」とのことで,結果は良性。

「多分,若いころからあったものが見つかったんでしょうね」 と拍子抜けするコメント。

でも,当面手術は不要だが,安心はできないので,今後,3ヵ月ごとに通院して大きくならないかどうかを確認するよう勧められる。

 

なんだかなあ。

この2週間の緊張感が一気にゆるんだ。

 

もし悪性だと言われたら,見つけにくい癌がたまたま受けた腹部エコー検査で見つかったと幸運を喜ぶべきか?

MRIで判定不能と言われたら,曖昧な気持ちを抱えつつ手術のタイミングをはからないといけないのか?

中途半端な気分のまま,結果が分かるまで考えないようにしようと思いつつ,内心は揺れ動き,毎夜,おかしな夢ばかり見た。

 

 

健康に生きるために何をすべきか,年々情報が多くなっている時代。

しかも,すでに高齢者と言われる年齢に達している。

それでも,健康に悪いとされることをやめずに生きてきた。

いまさら,,と思っていたが,こんな出来事を経験すると,今まで何の問題もなかったことを改めて感謝し,病気で苦しんでいる人たちに申し訳ない気分になる。

 

もう少し待ってね。まだやりたいことあるから。

そんな思いを確認するために,3ヵ月ごとの診察を受けるのも悪くはないか,と思う。

 

2ヶ月ぶり!

3月はじめの週末,子どもたちが帰ってきた。

とはいえ,二人ともリビングにモバイルパソコンを持ち込み,仕事をしている。世では働き方改革が叫ばれているのに,関係ないらしい。

合間に,それぞれ楽しそうに仕事の話をしてくれるから,まだまだ余裕だと思うしかない。

 

1月と2月にお誕生日を迎えて34歳と30歳になった子どもたち。

せっかくだから二人分の大バースデーパーティやろうよ。と事前に呼びかけたが,はしゃいでいるのは私だけのようだった。

昔のようにケーキを準備しても仕方がないか,プレゼントも喜んでくれないだろうし。

結局,丁寧に掃除して料理を作るしかないという結論になった。

 

 

むろん,母は大混乱しながらも大喜び。

二人が帰ってきてるのだから土曜日午後のデイサービスには行かない,と駄々をこねられたら困るので,「二人とも今日はまた外出するって言ってよ」とささやいておいた。

 

全員が一緒に食事ができる日曜日のランチにご馳走を作った。初めて挑戦した牛肉のシュニッチェル。なかなか好評で,母もみんなと同じ約150gを平らげた。

 

 

問題は,月曜日の夜。

帰宅すると,さっそく,母は,「みんないたのに,どうなった?」と尋ねる。

曖昧ながらも楽しかった週末の記憶はある。

でも,たった二人の孫の名前がすぐに出てこない。誘導すると,名前は思い出したものの,帰宅中のエピソードをいくつか話しても心当たりがないらしく,「せっかくきてくれたのに,なーんにもしてあげられなかった」と残念そうに言う。

「ちゃんと封筒に名前書いてお小遣いあげてたよ」,と言うと,「それならよかった」というやり取りを数回繰り返す。

「わたし,最近,忘れてしまうことが多いみたい」と珍しいことを言うので,「年齢からすれば,立派なもんだよ」と元気づけたら,素直に「ありがとう」と答えてくれた。

 

楽しいことさえ忘れてしまって,忘れたことも忘れてしまうというのは,本当に不思議で,かなしい。

やさしく丁寧に接すると笑顔で反応してくれるが,話し手の内心を感知したり,状況を理解したりすることはできない。さっき言ったことも聞いたことも忘れるので,会話の積み重ねはできない。

自分の頭にある記憶を引っ張りだし,夢うつつのような話を脈絡なく口にすることも多い。

 

とはいえ,二人だけの日常では,言葉をやり取りして場を取りもとうと試みるしかない。

何度も聞いた昔話には,相槌をうって聞き流す。

「わたし,せっかく車の免許取ったのに運転しないできて後悔してる。運転してたら,今でも一人で簡単に●まで行ってこられるのに」という言葉には,「運転してた人でも,その歳になったら免許返上してるよ」等と合理的な返事はしないで,「そうだったねえ。残念だったねえ」と話を合わせる。

そして,母の元の自宅の●のことはできるだけ思い出さないように,別の話題を提供する。

どうだ。認知症の人との会話のコツを掴んでいるだろう。

 

 

母が理解できそうな言葉を選んで,ゆっくり丁寧に話していると,子どもたちが乳幼児だったころを思いだす。

ただ,決定的に違うのは,子どもたちは,言葉を発することができない年齢でも,こちらの言葉や感情を全身で受け止め,経験したすべての出来事を小さな頭に蓄積していると実感できたこと。それが子育ての楽しさだったんだろうと思う。

 

母とは,一方通行の言葉が行き交うばかりだが,目的は母の心が穏やかになること。

結局,それが私にも平和な時間を生み出してくれる。

 

 

ネットを駆使して時代の波の前線で活躍している子どもたち。

二人の日常とかけ離れた祖母の暮らしに時々接するのも面白いよね,と思う。

また,帰ってきてね。

 

生まれて30年目の日

いよいよ、いよいよと思っていた30という区切りを迎えた。

ぎりぎり昭和の63年、30年前の今日、母に生んでいただいた。

当然ながら私はまったく覚えていないけれども、母の話によると、当時母は人生をかけた大きな試験の真っ最中。つわりと戦いながら勉強し、おなかが大きいままで最終の弁論試験を乗り越えた。

同情票をもらったんだろうね、とか、あなたがおなかから合格を持ってきてくれたんだよね、とか、いつも笑って話す母。

出産の経験をしたことがない立場ながらも信じられない快挙というのか、母親というものの胆力というものにつくづく驚き、かなわないと思うばかり。年を重ねるほどにその大きさを分かるようになってきました。

29で母は兄を生み、33で私を生んだ。母が母になった年を超えてしまったなあ、と思いつつ、時代も違うしそんなものはタイミングだし、まあ仕方ない、と思う(しかない)。

 

小娘にとっても30という区切りはそれなりに大きなポイントで、ちょうど1年前の今、30歳を迎えて自分なりに納得できる人生を生きていないって嫌だなと、組織を離れることを決めたりもした。

この1年は、なんだかまとまりのつかないことをてんでばらばらにやってきた自覚はあるが、すごく貴重で大きな糧になる経験をつめたはず。

 

今日から人生30年目、わちゃわちゃとしてしまう性格は変えられなくても、自分なりに方向を見据えて、一歩一歩でも前に進みたい。

強くたくましく、そして優しい母の姿に近づけるよう。

 

そんな目標を備忘録として、久しぶりの日記をしたためます。

なかなか落ち着かない娘を、まあしゃーないか、と大きく見てね。

娘なりに母の想いをしっかり受け止めていますよ。

(と、書いたところで日を超えてしまった。)