最近の母と私(2019.3.9 母)

今日は土曜日。5時前にデイサービスから帰宅した母を迎え入れる。

一人にしておくと私がいることを忘れてしまうので,できるだけリビングに一緒にいて,相手をする。

最近は,脈絡なく夢の中のような話をすることが多いが,今日は,自宅用のフリースのチャックが変だと言い続けていた。チャックの始まりをかみ合わせられずに苛立っている。「こうしたらいいよ」と代わりに締めたが,自分の気に入る方法ではなかったようで,納得しない。約30分,あーでもない,こーでもない,やはりおかしいと言い続けていた。その間,私は,適当な相槌をうちながら,久しぶりの快晴のおかげで気持ちよく乾いた洗濯物を畳む。

日が長くなってきて,6時前でも明るい。退屈した母が,「庭を見てくる」と言うので,「気を付けてね」と声をかける。何に気を付けたらいいのか分からないはずなので,自分でもおざなりな声かけだと思いつつ。

案の定,母はすぐに戻ってきて,「転びそうになった」と言う。足元を見ると,庭用の草履タイプのスリッパをとんでもない方向で履いていた。こんな履物を置いていたのを忘れていた。あわてて脱がせて靴箱にしまった。

最近,母から目を離せないので,リビングにモバイルパソコンを置いて,相手をしながら多少の作業をしようと試みている。でも,母はテレビに興味は持てず,新聞の見出しを何度も読みあげているが意味が分かっていない様子。ピアノを弾くよう頼んでも「音がおかしくなった」と言って続かない。一人で何かをして楽しむことができなくなっているのだ。当然,今日も,私の作業は進められない。

退屈のあまり,「もうお風呂に入ろうか」と6時過ぎに言い出したので,「先にごはんしようね。ちょっと待ってね」と何度か言って時間稼ぎをしようとしたが,30分も持たなかった。

 

たまの自宅での夕食だからと,柔らかい牛肉を焼いて出したら,喜んで食べてくれた。何でも食べて,美味しい,と言ってくれるのはありがたい。

最近,こんな母と正気で向き合うことに疲れて,私は,夕食時からワインを飲みだすことが多い(言い訳)。「もういいや」と思ってしまえる幸せ。

 

90歳を過ぎた母が,身体の健康状態に問題なく生き続けてくれていることは貴重だ。そして,何もかも忘れてしまい,時間をもてあましながら日々を過ごしているのは平和だ。

でも,そんな日常に付き合い続けたからといって,母がより幸せになっているわけではなさそうだ。安心できる環境を確保することに以外,母の何を応援することを目標にすればいいのかが見えない。

 時間も精力も無駄に費やされ,吸い取られていくような気分になるのは,そのせいかもしれない。

 

母に施設で生活してもらう選択をすれば,私の日常は戻ってくるだろう。でも,その決断をすることには躊躇する。

 

ふと昔のことを思い出す。

長男が生まれた後,予想した以上の充実感を感じる一方,育児を言い訳に自分の仕事を持つための努力を中断してはいけないとも思った。

他人に容易に心を開かなかった長男を受け入れてくれる幼稚園が見つかったおかげで,安心して自分の時間を持てるようになった。あのときに抱いた罪悪感は,その後,子どもたちが外での経験を重ねて成長していってくれたおかげで,ほとんど忘れてしまっていた。

 

それとこれとは似ているようだが,真逆かもしれない。

あのころは,子どもたちを社会にデビューさせることと私が自分の時間を確保することは同じ方向を向いていた。でも,すでに半分あちらの世界に行っている母が施設で生活するようになれば,さらに母をあちらの世界に押しやることになる。今回の決断を躊躇するのは,多分そんな思いがあるからだろう。

 

いまや人生の旬を迎えて活躍している子どもたち,能力低下を自覚して失敗しないよう注意するようになった私,その先を歩いている母。人が歳を重ねるひとつらなりを感じながら,どうするのがいいのか,しばらく悩みそうだ。