若い人たちへ(2019.2.17) 母

娘が仕事の関係で表彰していただいた。

うれしくって,先日,その会のトークセッションを聞きに行った。

会場は活気にあふれた働く若い女性たちで埋めつくされていて,私たちが同年代のころと大きく時代が変わっていることを実感した。

 

私が高校を卒業したころは,女性が進学するなら短大じゃなきゃ就職に苦労すると言われていた。

男女雇用機会均等法ができる10年以上前の時代だから,実際,大学の就職課の壁一面に貼ってあった求人票は,ほとんどが男子学生のためのものだった。

大多数の女性は20歳代で結婚して専業主婦になり,成人した女性が大勢集まる場所は産科か町内会か子どもの学校行事しかなかった。改姓後の姓でフルネームを書く機会はほとんどなかった。

結婚後も働く女性は「職業婦人」と呼ばれ,かわいそうな人か変わった人だと思われていた。

ウーマンリブ」という言葉など,世間話では恥ずかしくて使えなかった。

 

それから何十年も経ったが,先日の会場でもらった資料によれば,今も日本のジェンダーギャップ指数(経済,教育,保健,政治分野での男女格差指数)は144ヶ国114位。政治・経済分野に限ればさらに低いという。

しかし,そんな数字が信じられないほど,先日のイベントの女性たちは溌剌として,自然で,楽しそうだった。好きなジャンルで努力して,世の中とつながるために知恵を出しあいたいという意欲が伝わってきてうれしくなった。

参加者の女性たちの感覚は,とおの昔に男女の枠から解放されている。アンテナを立てている若い男性たちも,旧来の役割分担意識から自由な位置で新しい挑戦をしているのだろう。

もっと多くの女性が働きやすくなるためには,たくさんの制度改革が必要だが,指数の上昇は時間の問題に過ぎないと楽観できた。

 

むしろ,これからの時代,男女差よりも個人差の問題が大きくなるのだろう。

男女,経済力,学歴,職業,宗教,国籍等,いろんな分野での階層間での差別が続いてきたのは,差別を温存することにある種の合理性があったからで,その社会は差別があったからこそ安定がはかられたのだという見方がある。

たしかに,自分は男だから,有名大学を出たから,一流企業に勤めているから,日本人だから,,という優位幻想を前提に,自信に満ちた安定した人生を過ごせる人は幸せだ。差別があっても,何かの分野で優位にあると錯覚できる多数がいれば,社会はある種の安定を維持できるのかもしれない。

いろんな分野での差別をなくし,フラットな社会に進んでいくことは歓迎すべきだ。でも,すべての差別がなくなった社会では,自分は何をしてきたのか,何ができるのか,何をしたいのか,あらゆる事柄を個人の視点でクリアに意識して実行することが常に求められる。そういう緊張した生活を続ける能力が全員にあるはずはない。その能力があっても維持し続けるのは並大抵ではない。

 

女性たちの一部は,社会的自由を活用してフル回転しはじめ,男性たちの一部も,優位幻想にとらわれることなく,新しい感覚と技術を駆使して,より広い世界を獲得しようとしている。

遅れている日本でも,すでに性差は言い訳にできなくなっている。

 

息子や娘は,幸い,誰かに働かされている感覚を持つことなく,楽しそうに仕事し続けている。まぶしいなあ,と思いながらも,その精神力と体力を生涯維持していくのはハードだよ,たまにはゆっくりしようよ,と言いたくなる。

親だから,そんなお節介も許されると思っているが,本当は,性差を前提として安定していた時代に,女であることのハンディを逆手にとって,ちまちまと周辺を味方につけて家庭と仕事をする工夫をするのも楽しかったよ,という昔話をしたいだけかもしれない。

でも,そんな微細なことに頭を使うよりも,世界に向けた発信のための工夫に努力する方がはるかに楽しくて有益だろうとは思う。