ハノイ旅行 (2019.11.24 母)

1 10月30日から11月3日までハノイに滞在した。
  2017年3月に新聞社を退職して地方に在住しながら複数の仕事を始めた娘は忙し そうだが,日々楽しそうでもある。
  その仕事の一つがベトナム技能実習生を受け入れるということだと聞いていたが,具体的にどの組織でどのような活動をしているのかは知らなかった。
  母の介護を施設に委ねて自由になった私を娘が「見学してみない?」と誘ってくれたのをきっかけに,10年以上ぶりに海外旅行をすることになった。

2 日本の労働人口は減少を続け,対策を講じた結果,女性の雇用拡大で200万人,65歳以上の稼働人口200万人を増加させたが,それでも労働人口は450万人が減少しているということである。
  平成30年10月末時点の外国人労働者(約146万人)のうち「技能実習」の在留資格を持つ者は約31万人だというので,まだまだ足りない。入国管理法改正によって「特定技能」というより安定的な在留資格が追加されたものの,この資格によって受け入れている外国人はまだわずかである。

3 ハノイに行って初めて理解したのは,娘が所属している組織は「外国人技能実習機構」で,登録管理団体として許可されたところであるということ。
  そして,このような「受入機関」が,ベトナム等の国の「送出機関」と連携し,日本の企業で働きたいという希望を持ったベトナムの若者たちを選定し,「技能実習生」として受け入れるための支援をしているということ。

4 初日からさっそく,日本の道路関係工事を行う会社の募集に応じたベトナムの若者たちの面接に立ち会わせてもらった。
  みな意欲的で,片言の日本語で自己紹介を懸命にする様子は痛々しいとも思えた。ただ,胸に番号が書かれた大きなゼッケンをつけているのは,「日本ではありえないよね」と思う。
  3日目には,とび職として日本で働く若者たちの面接に立ち会う。1日目とは違う「送出機関」の事務所で,日本企業の社長がスカイプで面接の様子を見る。
  どちらの「送出機関」も立派な建物で,語学学校のようだ。でも,驚いたことに,日本語で自己紹介した若者たちは,現時点では1週間足らずしか研修を受けていないという。あの日本語をそんな短期間で覚えたなんてすごい。複雑なベトナム語で書かれた文字に圧倒されていた私は,心底若い人のパワーに感動した。
  採用された人たちは,今後,半年程度,「送出機関」で日本語研修等を受け,来日するという流れになるようだ。とび職で働きたいという若者たちが,面接の後,日本で働いている先輩とスカイプで話をして,「月給28万円なんてしんじられない!」と叫んでいた。先輩も気持ちよく働いている様子で,安心する。

5 外国人労働者たちが劣悪な環境で働かされている例を耳にすることは多い。
  でも,日本の労働人口が不足している事実,これをこのような方法で補っている事実,人手不足に悩む日本企業と日本で働きたいと思うベトナムの若者たちをマッチングさせ,両者にとってよりよい方法でこれを支援しようとする日本とベトナムの機関がこうして機能している事実は,もっと人々が知ってもよいのではないかと思った。

6 それにしても,娘はベトナムでも忙しい。ベトナムを訪問する日本企業の人たちを送迎する合間に,別の仕事の会議をスカイプでやっている。それでも,日本にいるときよりはリラックスできるという。
  3日間の滞在中,娘と二人で過ごせた時間はわずかだったが,その間に,喧噪のハノイの旧市街地を散歩し,味わい深い出汁と香り豊かな野菜が魅力的な食べ物を味わった。
  3日目の朝,甲高いクラクションの音で目が覚めた。最初は違和感があったが,すっかり耳になじんで,のどかな音に聞こえた。窮屈で小難しいことにとらわれている日本人より,この国の人たち,ずっと充実して希望にあふれた日々を送っているのかもしれないと思う。
  また,こんな活気に触れてみる機会を是非持ちたいと思いつつ,ベトジェットで帰国した。

トイレ改変!  (2019.8.18 母)

 

母が入所してから,少しずつ家の中を自分仕様に整えてきたが,2階のウォシュレットがガタガタしているのが気になっていたので,変えようと思い立った。

ネットで検索すると,「交換できるくん」というサイトがあって,1万円で設置もするが,この通りにしたら自分で交換できるよ,商品も大幅値引きしてるよ,等という魅力的な文句が。

設置料1万円はもったいない,工事日程を調整して自宅待機しないといけないのも面倒だと思い,「よし,自分で交換しよう!」と商品のみ購入。

あっと言う間に商品が届いたので,今日の午後,「交換できるくん」のサイトと商品説明書をトイレに置いてチャレンジ。

 

ところが,さっそく「止水栓を閉める」という冒頭部分で躓く。サイトや説明書の図とうちのトイレの管の構造が違う。止水しないと管の交換が出来ないことは分かるので,それらしきネジを回そうとするが,びくともしない。

早くもめげそうになったが,「そうだ! 止水できればいいんだから水道の元栓を閉めたらいいさ」と思いついた。実家の水道管が漏れていることが分かって,元栓を閉めた経験が役に立つ。

家のまわりを巡って,元栓の設置場所を発見。バーを倒してから1階の水道をひねってみて出ないことを確認。

「さすがだろ」とつぶやきながら,2階トイレに戻る。

つぎは,交換すべき管の上下の六角ネジを外せばいい。しかし,上のネジは外れたのに,下のネジがまったく回らない。しかも,外した上のネジ跡から水が噴き出してくるではないか!

この水はどこから? とパニックになり上のネジを再度締め直して水を止め,30年近く前に設置されたままの水道管のネジがさび付いていても当然だと思い至る。

 

この時点で,ようやく,やはりプロに頼むべきでは,,と弱気になる。でも,ここまでやったんだから,とりあえずせめて古いウォシュレットは取り外しておきたいと思い,交換手順に沿って,古いウォシュレットの電源コードと管を撤去しようとした。

この諦めの悪さが災いした。撤去したとたん,取り外した管の先から水が噴出。しかも,水圧が強く,さっきとちがって,戻すことができない。

きゃー! なぜだ? 元栓を止めたはずなのに,ここからも水が! この水はどこからくるのだ???

 

ついに,お手上げだと観念し,プロに頼むことを即時決断。

ネット検索をすると,水のトラブルに関する情報の多いこと。

一番上にヒットした業者さんに電話すると,「ちょうど近辺で作業中なので,7時半から8時にはうかがえます」という。その時点で夕方5時。噴出している水が気になって,思わず予約してしまったが,電話を切ってから。「全国展開の業者なのに,たまたま近辺で作業中って,ほんとか? この業者,大丈夫か?」と心配になった。費用は,訪問してから見積もるというのも怪しい。

 

その後,あれこれ検索して,結局,テレビCMでよく見かける大手業者らしいCに電話。より早く来てくれそうだということもあり,同社に鞍替えした。

その後,貧乏性の私は,古いウォシュレット管から噴出する水を流すのはもったいないと,流れる水を2個のバケツで交互に汲みつつ,2階のベランダの掃除に励んだ。それでも噴出し続ける水は,作業開始から大量に使った雑巾の下洗いのためにせっせと1階に運ぶ。

もちろん汗だく。

 

Cの救世主は,予定通り7時に来てくれた。なかなかの好青年。

まず,水道の元栓を切っているのに,なぜ噴出する?という疑問には,即座に水道管の元栓を確認し,「完全に閉まっていませんでした」と説明してくれた。そうだったんだ。言われてみれば簡単なことだ。

そして,当のトイレの水道管については,「止水栓も六角ネジも古すぎて,素人では到底扱えません」とのこと。やはり,,。

そして,ついでのように,本体やタンクも古いので,中の器具を交換することをお勧めしますが,今,キャンペーンをしているので,むしろ本体を取り換えた方がいいのでは,とさわやかに営業及びアドバイス

 

水の問題はプロに任せるべきだったと反省し,すっかり素直な気持ちになっていたわたし。従来のタンクの中がカビだらけになっているのが気にもなっていたので,即時,トイレごとの交換を依頼した。

 

新しいトイレの到着を待っている間,自宅のあちこちの水回りについて相談していると,風呂の蛇口の取り換えも勧められた。たしかに,汚いだけでなく,使い勝手も悪い。「工事費は不要にします」という言葉に乗って,これも依頼。

 

その時点で,作業終了が10時近くなることは確実なのに,そんなことを意に介する風もなく,日曜日の夜間に気持ちよく働いてくれる若者にすっかり魅せられてしまった私は,さらに,水漏れをしていた2階トイレの手洗い蛇口の交換も頼むことにした。

 

おかげで,うちの水まわりはすっかりきれいで安心できる状態になった。

それにしても,最近の若者はきちんとしているよなあ。

 

「これからも何か問題があれば,私の携帯に電話していただければ,対応させていただきます」と断言してくれた彼の笑顔と営業力に惹かれ,結局,あれこれ頼んでしまっていた。

11時近くまでほがらかに仕事をしてくれた彼には,「お腹すいたでしょう」と果物のスムージーを提供したが,これって,年寄り相手の詐欺ではないよね,と確認しなければいけない気分になるのは,少しかなしい。

 

はじめての一人暮らし (2019.7.25 母)

1982年,満26歳で結婚するまで実家で生活していた。結婚して初めて親から解放され,やっと自分の足で歩けるようになったと感じたときの喜びは忘れられない。

 

その2年後,長男が生まれ,両親から日常的に子育てを助けてもらうようになった。その4年後には長女が生まれた。家族4人と両親の6人で食卓を囲むことも多かった。

両親は,子どもたちと少しでも長く一緒にいられることを喜んでくれたが,夫への遠慮もあっただろう。夫の側も,イクメンになれない人だったとはいえ,私の両親に世話になることに申し訳ないと気を遣っていただろう。

 

1997年の夫の病気発覚後は,そんな双方の遠慮を気にする余裕もなくなった。

両親のさらなる協力を得て,私は仕事を休んで夫との時間を過ごし,当時,中学2年生だった長男と小学4年生だった長女の世話を両親に任せた。

 

翌年,夫が満46歳で亡くなり,2000年には父が満79歳で亡くなった。

子どもたちは,そんな環境の変転にかかわらず,素直に成長して10代を過ごし,それぞれ自分らしい方法で進路を選んでくれた。

父死亡後に同居するようになった母が,思春期の難しい時期の孫たちを適度な距離感で見守ってくれていたことに感謝する。

 

子どもたちが社会人になってから,10年以上が経つ。

二人暮しになってから,母に少しずつ認知症の症状が出てきた。それも含めて,二人の生活を楽しんできたつもりだったが,最近の急激な症状の進行についていけなくなり,先日,母は施設に入所した。

自分の選択とはいえ,認知症の予想外の早い進行に慌てるように決断し,私の生活も,突然,予想外の早さで変化した。

 

それから1カ月弱。私は,まだ母の不在に慣れていない。

考えてみれば,この歳になって初めての一人暮らし。

 

家族の帰宅を待つこと,家族の帰宅時間に合わせて自分の予定を立てること。近隣の鉄道駅まで家族をクルマで送迎すること。そして,一緒に過ごす家族が喜んでくれる食事を準備すること。

そんな日々の暮らしは楽しかった。

そういう予定を優先して,自分の仕事や趣味の時間を先送りすることは,ちっとも苦痛ではなかった。 

 

私が20歳代のころは,女性は25歳までに結婚して家事育児に専念することが普通だと思われていた。

でも,たまたま,一緒にいたいと思う人と結婚して実家を出て自由を獲得できたうえ,自分が社会に直接提供できる仕事を得られ,続けてこられたのは幸せだった。

世間から違和感をもって見られることなく,自分の希望に沿った生活をするのは,小心者のくせに自我が強い私には,ちょうどよい立ち位置だったのだと思う。

 

ただ,振り返ってみれば,常に,私は誰かと同居していた。私の人生は,そんな家族に支えられてきたのだと思う。

 

大学生だったころ,一人暮らしにあこがれていたんだったと思い出し,いまごろになってそんな昔のあこがれを実現できたことに戸惑っている。

何時に起き,何時に出かけて,その間に何をするのか。何時に帰宅して,どんな夕食を作って何時に寝るのか。すべてを私の都合と気分で決めていいなんて,60歳過ぎて初めての経験だ。

 

この生活に慣れて,自分の欲望を前提に自由な生活をどんな風に作っていくのかを決めるためには,まだ時間がかかりそうだ。

まずは,ずっと誰かが一緒に生活してくれていることで感じていた安心感はもうなくなったことを受け入れることが必要なんだろうと思う。

 

母がいない! (2019.7.14 母)

 

 先日,母は,体験入所に引き続き介護付有料老人ホームに入所することになった。見学3件目で辿りついた施設である。

 

6月末,体験入所に送り出す日も,母は早朝から起きだしてピアノを弾いていた。

音が途絶えたので降りていくと,案の定,母は,パジャマと部屋履きのまま雨上がりの庭に出ている。

慌てて着替えさせたが,その後もなかなか落ち着いて部屋の中にいてくれないので,朝食を提供し,洗濯機を2回まわして干す合間に,ようやく自分の身支度をした。

 

前日までに衣類やタオルのすべてに名前を書いて準備し,お気に入りのぬいぐるみ,塗り絵と色鉛筆,ヘルパーさんが母のためにコピーしてくれていた童謡の楽譜と歌詞カード,母が昔描いた墨彩画の1枚,カレンダーの裏に大きな字で書いた私のお手紙,オヤツとして高知の芋ケンピなどを次々入れたら,結構な荷物になった。

10時過ぎ,母と着替えとグッズをクルマに乗せて出発。

 

5泊目まで,大きな問題なく過ごしてくれたことを確認して,入所契約に至った。

細やかな配慮の行き届いた施設で,安心できる。

 

6月は,母の入所に向けて準備しているうちに終わってしまった。

 

施設に入所しても,自宅と往復して,それぞれの場を楽しんでくれるのが理想だが,今の母にはそれは難しい。母とゆっくり自宅で時間を過ごすことはもうないのだと思う。

 

 

さみしいでしょ?

と親しい友人から言われる。

でも,少しちがうような気がする。

 

背負っていたリュックの荷物が急に空になって,一気に楽になったがバランスを崩してしまいそうで,立ち止まっているという感じ。

 

数年前から,この家は母にとって生活しやすい空間になるよう工夫してきた。

でも,ドアに貼り付けた「トイレ」「洗面所」という紙や,私に電話するときに押すボタンを示す貼り紙は,もう無意味だ。

自分の夫や子どもたちや孫たちの名前と関係が分からなくなった母のために作った簡単な家系図や家族の写真を貼っている壁もむなしい。

 

私の24時間を母と自分に配分する必要もなくなった。

毎朝,何度も二階の自室と階下をばたばたと往復してきたのに,朝の時間を自分の準備だけのために使っていいなんて気楽すぎる。帰宅時刻が遅くなっても誰にも連絡しなくっていいって,何と自由なんだろう。

自宅近くでのホットヨガ中に救急車の音が聞こえるとドキリとするが。その都度,母は自宅にはいなかったんだと思い出す。

 

母がいない。

その状態に慣れて,単身生活を整えるためには,しばらくかかりそうだ。

デイサービスHの方々へ(2019.7.9 母)

6月29日から,母は,介護付老人ホームKに体験入所していましたが,7月4日に入所契約を済ませ,そのまま長期入所をお願いすることにいたしました。

皆さまには,大変お世話になり,ありがとうございます。

母と私は,平成28年4月から3年以上にわたって,皆さま方にたくさんのお力をいただいてきました。改めてこの歴史を振り返り,感慨を深めております。

 

Hにお世話になる約1年前から,母は自宅で一人過ごさせるのが心配な状態になり,家政婦協会の方に来ていただくようにしました。でも,母は,なぜそのような方が来られるのかいぶかしむばかりで,私の期待に反し,良い時間は過ごせなかったようです。

当時のケアマネさんにご相談し,Hを紹介されて訪問させていただいたとき,「ここなら母も楽しんでくれそうだ」と直感しました。その後,Hに通うようになった母が「お教室」と呼ぶようになったように,利用者さんとスタッフの方々が過ごされていた部屋は,まさに昔の女学校の教室のような和やかで安心できる空間でした。

そのような時間と空間を作り出されていたスタッフの方々の力量がどれほど優れたものなのか,今なら,当時以上によく理解できます。

 

母のような性格の人には,デイサービスに参加させていただくのは無理なのではないかという懸念をよそに,母は,Hに通うのを楽しみにするようになりました。「デイサービス」ではなく,「H」と言う名前の「お教室」に通うようになったと母は理解し,当初は,毎日の記録に目を通して,「わたし,おしゃべりなんてしていないのに,おしゃべりって書いてある」等と言うこともありました。

母にとっては,昔の小学校の教室で「おしゃべり」してはいけないとしつけられていたことを思い出させたのかもしれません。そんな母の様子をお伝えしたところ,すぐに記載方法を工夫していただき,ありがたかったです。

毎日,細かく母の状態を記録していただいていたのに,母が読んでどう感じるか分からないと思って私の方は一度も書き込むことなく,必要なことはUさんやNさんが電話やメールで連絡してくださりお伝えするなど,余分なお手数をおかけして申し訳ないことでした。

 

帰宅後に読むのを楽しみにしていた記録は,10センチを超える束になっています。日々のバイタルチェックの数値,当日の行事,それに対する母の反応,気になること等を書きこんでくださり,母が多くの方々に見守っていただいているという安心感を持つことができました。ランチのメニューを自分で書くよう誘導していただくのも大変だったと思いますが,母が,徐々に文字が書けなくなってきた経過がよく分かります。

 

適切に介護の仕事をするためには,スタッフ一人一人が豊かな想像力,共感力,忍耐力を備え,冷静に状況を観察して必要な支援を提供できる髙い技術を持っていることが必要であり,さらにそういう能力を発揮できる体制ができていることが大切なのだと最近実感しています。

入居施設を探すにあたって,いくつかの施設を見学しましたが,職員数の関係もあるせいか,「うちでは,これが限界です」という説明を受けることが多く,悲しい気持ちになりました。

Kでは,基準より多い人数の職員が対応してくださっていて,入居者に対する視線もHと同様,温かいものだと感じられます。

 

長年,日中のほとんどをHにお世話になり,夕方の数時間をTの会を利用させていただけたおかげで,母は長く自宅での生活を過ごすことができました。

私が,日常的に直接接することができたのは,Uさん,Nさん,朝のお迎えに来てくださる方々だけでしたが,どの方々も,いつもにこやかにあるがままの母を迎え入れてくださる様子に,母と同様,私も日々元気をいただき,安心して毎日を送ることができました。

 

母にとっても私にとっても,この3年余りは,貴重な時間になりました。

私たちに大切な時間を与えていただき,心から感謝しています。

 

これからも,Hの皆さま方が,他の多くの高齢者と家族の人々のために良い時間を提供し続けてくださることを願ってやみません。

「長いお別れ」の途中(母 2019.6.17)

私の母の父親は,中国の青島で煙草会社の工場長をしていた。

青島は,日本がドイツから引きついで租界としていた都市で,西洋風の建物が建てられ下水道が整備された近代的な街だったようだ。

18歳まで青島で育った母は,家族5人と複数の中国人の使用人と同居し,近所に住んでいた大所帯の親戚家族と頻繁に交流していたという。

 

戦後,母は結婚して兄と私を出産し,今ほど便利でもなく材料も揃わなかった時代に,料理はもちろん,ほとんどの衣服やケーキを手作りしていた。私が小学校高学年になったころからは,家で子どもたちにピアノを教えたり,近所の人たちに洋裁の製図を教えたりしはじめた。

母は非の打ちどころがない主婦だったのだろうが,私は,物心ついたころから,「なんか違うよね」と思ってきた。

私は,父親譲りの活字人間で,小説に没頭し現実世界を忘れる子どもだった。小説を読んでいなければ,ぼんやり空を眺めているのが幸せだった。

小説を読んでいる私を見て,母が「怠けている」と思っていたことは知っている。「ぼんやりしている時間があるならピアノの練習をしなさい」と言われることも多かった。

ピアノを習わせ,貞淑な女性として育てあげ,立派な男性と結婚させようという母の魂胆からどんどんずれていく私のことを,母も「なんか違うよね」と思っていたことだろう。

 

当時の母は,いつも何かに急き立てられていて,明日は,今日やり残した義務を処理するために迎えるものと思っているようにみえた。

戦後,国や社会は大きく方針を変え,経済発展という新しい目標に向けて突き進んできた。生真面目な母は,変革期にスタートさせた家庭生活を堅実に作り上げなくてはいけないとまなじりを決して日々を過ごしてきたのだと思う。

母は,歳を取ってから始めた書道や墨彩画も,楽しむというよりプロ級の作品を仕上げるために苦しんでいるようだった。

 

そんな母を見ているうち,私は,自分自身が楽しいと思う生き方をしたいと思うようになった。そして,結局,母が想定していた方向と違った選択ばかりをすることになった。

どの選択についても強く反対されなかったことは,両親に感謝しなければならない。親の言うことを聞く娘ではないと諦められていたのだと思う。

 

なのに,結婚後は,母が本当に楽しそうに育児に全面的に協力してくれたおかげで,私は罪悪感を抱くことなく仕事を始め,継続し,夫発病後には看病に専念することもできた。

母は,自分が諦めていた人生に娘がチャレンジするのを応援し,孫の世話という最も母にとって楽しい仕事を自分にまかせられることを幸せだと感じてくれていたようだった。

  

思い返せば,私の子どもたちが家を出たころから,母の認知症は始まっていた。

通販で同じ化粧品を短期間に何度も注文していることがわかったとき,待ち合わせの場所に現れなかったとき,百貨店で一緒に選んだ服を持ち帰った直後に自分の物ではないと言い張ったとき,記憶違いを指摘すると激しく反発されたとき。。

当時は,老化のせいか認知症の始まりかは分からなかったが,その都度,これまでとは違う接し方をしなければならないと意識するしかないと思うようになった。

 

そのうち,母は,同じ話を繰り返すことがさらに多くなり,一人で近所から帰宅できないことが分かり,調理ができなくなり,さっき聞いたはずのことを忘れるようになった。年月日はもちろん季節も分からなくなった。

 

昨年来の変化は,さらに著しい。

今は,目の前に置かれた衣類を,どの順序でどの向きで着たらいいか分からず,ソックスに至るまで履かせてあげなければいけない。

自宅のトイレの場所も分からなくなるので,声かけをして手を引いて連れていかなければいけない。トイレの失敗も起きるようになった。

デイサービスのお迎えの車がもうすぐ来るから待っていてね,と言いきかせていても,自宅用のスリッパのまま庭に出て,鍵のかかった別のドアから入れなくて困っている。この間は,少し目を離したときに,一人で外に出て遠くまで歩いて行ったので大騒ぎになった。

見当識がないってこういうことなんだよね,と実感する日々である。

 

結婚したことも,子どもたちや孫たちを育てたことも忘れているのに,青島時代のエピソードを突然話し始めるのは,素直に自分をさらけ出して生きている今と当時がシンクロするからかもしれない。

父と結婚してからのことはすっぽり消えてしまい,結婚後の家族の写真を見ても思い出してくれないのは切ないが,しっかり者で,きちんと生きていかなければいけないという義務感にかられていた日々には,ずいぶん無理をしていたのだろうなと思う。ご苦労さまと言うしかない。

 

ぼんやりして穏やかになった母の表情からは,若い時代の険しさがすっかり消え失せた。

今の母は,私が子どもだった時代に比べると,ずっと広い世界に漂っていて,自然に身を任せているように思う。

それは母が認知症になってくれたおかげかもしれないと思う。

 

「長いお別れ」という小説のタイトルは秀逸だ。

認知症が始まってから,私は母との長いお別れの時間を過ごしている。施設入所が決まってから残された時間がどれだけあるかは不明だが,いつか,たっぷりお別れができたよね,と言って見送ることができればいいと思う。

 

 

庭の剪定(2019.5.12 母)

この家を購入して移り住んだのは2005年3月。

駅から遠くても庭のある家がいいね,と夫と相談して決めた。

でも,その3年半後,夫は死亡し,入院期間を差し引けば3年弱しかこの家に住めなかった。

転居したとき,子どもたちは小学校6年生と2年生。夫は,週末ごとにホームセンターに行き,庭のメンテナンスのためのあれこれを購入し,子どもたちの世話に通ってくれていた母と一緒に煉瓦積みなどして楽しんでいた。

 

夫死去後,もともと草木が好きな母は,家族を楽しませようと日々庭作りに精を出してくれた。薔薇や季節の花々であふれた大量の写真は,当時のプレゼントの記念だ。

母が野菜くずをせっせと埋め続けてくれたおかげで,小夏は,数年前まで,毎年貰い手に困るほどたくさんの実をつけてくれていた。

 

夫が亡くなって20年が過ぎた。

父も亡くなり,子どもたちは仕事を持って遠方に住むようになった。

母は,長谷川式検査で数字が出ないほど重い認知症になった。

 

あっという間の20年間。

ずっと庭の手入れは母任せだった。たまに手伝おうとしても,自分流のやり方がある母と衝突してしまうので,私は全面降伏したふりをして,楽をしていた。

数年前から母は庭に出ようとしなくなり,植木屋さんに年1度の剪定を任せることでよしとしていた。

地震と猛暑と台風にやられた昨年は,植木屋さんが超多忙らしいと聞き,その剪定依頼さえ先延ばしになっていた。

 

4月に入って昼が長くなったころから,急に荒れ放題の庭が気になりだした。

連休中,帰宅した息子に手伝ってもらって雑草をきれいに刈り,数本の枯れ木をのこぎりで切って,自然生えの葡萄の巨大な根っこを引き抜いたら,私の庭への関心に突然火が付いた。

見渡すと,庭中の植栽がうっそうと茂っている。枝や葉が混んでくると虫も発生しやすいらしい。とにかく風通しをよくしなきゃと思い,母のデイサービスの迎えを待つ間,庭ハサミを持って手近なところを切り始めたら,次々と気になるところが見つかる。

昨日からの晴天の週末。朝と夕方の陽射しが強くない時間帯を狙って,庭に出た。

 

いろんな木の葉っぱの裏に張り付いている毛虫を発見。伸びた若枝を切るのを最初は躊躇したが,自己流に次々切ってみたら,植木屋さんの仕上がりとあまり変わらないと一人悦に入る。

ここまでやったら,いまさら植木屋さんに頼むのはもったいない。秋まで持たせよう。

 

それにしても,久しぶりの自然との格闘。

昨年の猛暑で枯れてしまったと思っていたアジサイが,別の新しい枝をたくさん延ばして元気な葉を付けていることに驚く。トキワマンサクは,花が咲いたときだけ目をとめる存在だったが,こんなに好き勝手な方向に枝を伸ばしていたんだ。良い香りを楽しませてくれているジャスミンが,これほど他の植物を侵食する意地悪をしていたなんて!

髙く伸びた大きな樹は秋に植木屋さんにお願いするしかないと思いつつも,この調子でいけば,手の届くところだけでなく,脚立に乗って剪定に熱中しそうだ。

90リットルのビニール袋に次々を枝葉を入れてゴミ出しをすると,申し訳ない量になってしまった。

今週末は,ホットヨガに行けなかったけれど,それと同じくらい汗をかいた。

 

これ,わたしの新しい趣味になるかも。