「長いお別れ」の途中(母 2019.6.17)

私の母の父親は,中国の青島で煙草会社の工場長をしていた。

青島は,日本がドイツから引きついで租界としていた都市で,西洋風の建物が建てられ下水道が整備された近代的な街だったようだ。

18歳まで青島で育った母は,家族5人と複数の中国人の使用人と同居し,近所に住んでいた大所帯の親戚家族と頻繁に交流していたという。

 

戦後,母は結婚して兄と私を出産し,今ほど便利でもなく材料も揃わなかった時代に,料理はもちろん,ほとんどの衣服やケーキを手作りしていた。私が小学校高学年になったころからは,家で子どもたちにピアノを教えたり,近所の人たちに洋裁の製図を教えたりしはじめた。

母は非の打ちどころがない主婦だったのだろうが,私は,物心ついたころから,「なんか違うよね」と思ってきた。

私は,父親譲りの活字人間で,小説に没頭し現実世界を忘れる子どもだった。小説を読んでいなければ,ぼんやり空を眺めているのが幸せだった。

小説を読んでいる私を見て,母が「怠けている」と思っていたことは知っている。「ぼんやりしている時間があるならピアノの練習をしなさい」と言われることも多かった。

ピアノを習わせ,貞淑な女性として育てあげ,立派な男性と結婚させようという母の魂胆からどんどんずれていく私のことを,母も「なんか違うよね」と思っていたことだろう。

 

当時の母は,いつも何かに急き立てられていて,明日は,今日やり残した義務を処理するために迎えるものと思っているようにみえた。

戦後,国や社会は大きく方針を変え,経済発展という新しい目標に向けて突き進んできた。生真面目な母は,変革期にスタートさせた家庭生活を堅実に作り上げなくてはいけないとまなじりを決して日々を過ごしてきたのだと思う。

母は,歳を取ってから始めた書道や墨彩画も,楽しむというよりプロ級の作品を仕上げるために苦しんでいるようだった。

 

そんな母を見ているうち,私は,自分自身が楽しいと思う生き方をしたいと思うようになった。そして,結局,母が想定していた方向と違った選択ばかりをすることになった。

どの選択についても強く反対されなかったことは,両親に感謝しなければならない。親の言うことを聞く娘ではないと諦められていたのだと思う。

 

なのに,結婚後は,母が本当に楽しそうに育児に全面的に協力してくれたおかげで,私は罪悪感を抱くことなく仕事を始め,継続し,夫発病後には看病に専念することもできた。

母は,自分が諦めていた人生に娘がチャレンジするのを応援し,孫の世話という最も母にとって楽しい仕事を自分にまかせられることを幸せだと感じてくれていたようだった。

  

思い返せば,私の子どもたちが家を出たころから,母の認知症は始まっていた。

通販で同じ化粧品を短期間に何度も注文していることがわかったとき,待ち合わせの場所に現れなかったとき,百貨店で一緒に選んだ服を持ち帰った直後に自分の物ではないと言い張ったとき,記憶違いを指摘すると激しく反発されたとき。。

当時は,老化のせいか認知症の始まりかは分からなかったが,その都度,これまでとは違う接し方をしなければならないと意識するしかないと思うようになった。

 

そのうち,母は,同じ話を繰り返すことがさらに多くなり,一人で近所から帰宅できないことが分かり,調理ができなくなり,さっき聞いたはずのことを忘れるようになった。年月日はもちろん季節も分からなくなった。

 

昨年来の変化は,さらに著しい。

今は,目の前に置かれた衣類を,どの順序でどの向きで着たらいいか分からず,ソックスに至るまで履かせてあげなければいけない。

自宅のトイレの場所も分からなくなるので,声かけをして手を引いて連れていかなければいけない。トイレの失敗も起きるようになった。

デイサービスのお迎えの車がもうすぐ来るから待っていてね,と言いきかせていても,自宅用のスリッパのまま庭に出て,鍵のかかった別のドアから入れなくて困っている。この間は,少し目を離したときに,一人で外に出て遠くまで歩いて行ったので大騒ぎになった。

見当識がないってこういうことなんだよね,と実感する日々である。

 

結婚したことも,子どもたちや孫たちを育てたことも忘れているのに,青島時代のエピソードを突然話し始めるのは,素直に自分をさらけ出して生きている今と当時がシンクロするからかもしれない。

父と結婚してからのことはすっぽり消えてしまい,結婚後の家族の写真を見ても思い出してくれないのは切ないが,しっかり者で,きちんと生きていかなければいけないという義務感にかられていた日々には,ずいぶん無理をしていたのだろうなと思う。ご苦労さまと言うしかない。

 

ぼんやりして穏やかになった母の表情からは,若い時代の険しさがすっかり消え失せた。

今の母は,私が子どもだった時代に比べると,ずっと広い世界に漂っていて,自然に身を任せているように思う。

それは母が認知症になってくれたおかげかもしれないと思う。

 

「長いお別れ」という小説のタイトルは秀逸だ。

認知症が始まってから,私は母との長いお別れの時間を過ごしている。施設入所が決まってから残された時間がどれだけあるかは不明だが,いつか,たっぷりお別れができたよね,と言って見送ることができればいいと思う。